Essays

能と舞踏における「花」と「華」− 2

by MIRO ITO (伊藤みろ)

 

ところで、世阿弥が著した『風姿花伝』で語られる「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」(2)という「花」の美学とは、一体何なのだろうか。

「花」の美学を理解するためには、修二会の行法に由来する、能楽(猿楽)以前の時代からの、1300年来の咒師による祈祷・所作の霊力を思い起こす必要がある。
世阿弥の諭す「花」の美学の底流には、東大寺や興福寺、法隆寺や薬師寺などの奈良の大寺院で行われてきた、神秘の秘儀としての、猿楽の大本が浮かび上がってくるのだ。

「花」と「華」:普遍性と多様性の美

東大寺の修二会が始められた年に造立された、東大寺大仏の大本となる華厳思想の中核には、つぎのような喩えがある。すなわち、この世を、煩悩の沼から清らかに立ち上る〝蓮の花の荘厳〟であるとする。そして〝一人一人はかけがえのない華〟なのである。

その「花」と「華」は、それぞれ普遍性と多様性を象徴し、能と舞踏に息づいている。

世阿弥は「花」を年齢によって移ろう「時分の花」と云い、老いて齢を重ねても色褪せない舞の花を「まことの花」と呼んだ。
「まことの花」とは、移ろう運命をも超えて、なお花は花であり続けるという普遍の力であり、人の品位である「位」を土台に、「型」を幹に咲く。そして位も型もすでに身体の一部の自然で自明の感覚となり、演者が忘我の境地に至った暁に、無意識から立ち顕われる、いのちの輝き(霊性)こそが、能の真の花なのだと思う。
すなわち能の「花」とは、「隠し身のしるし」を探る花であり、普遍性を志向する花なのだ。

もとより能では、 生身の人間である能役者が仮面によって神や霊といった、人間を超えた存在に変身することで、〝この世ならぬ〟新奇にして幽玄なる光彩を放つ。世阿弥によれば、「花」とはまた「珍しさ」「目新しさ」を「輝き」としても咲くものだ。

これに対して、舞踏は、多様性の「華」だ。
舞踏家の「華」とは、形式を否定するが故に、無意識という沼底から蓮のように浮かび上がる、〝それぞれのいのちの華〟なのだ。舞踏の「華」は、生まれたばかりの赤児の悲鳴にも似た、のっぴきならぬ、個々の剥き出しのいのちそのものといえる。
舞踏家は、あたかも胎児の記憶を取り戻すかのように、手足を動かし始めたばかりの赤児へと回帰し、人が歩行を始めたばかりの太古の身体感覚を探りながら、「重力との対話」(3)を試みる。
それぞれの多様性の「華」の大本には、身体の持つ始原のいのちがあり、姿形が違っていても、〝すべてが一つである〟という華厳の教えとも通じていく。

 

2 世阿弥『風姿花伝』第七「別紙口伝」(1402 -1422年頃)
3 天児牛大『重力との対話―記憶の海辺から山海塾の舞踏へ』(岩波書店、2015年)
(※当エッセイは、2021年10月発刊予定の写真集『隠し身のしるし』に収録予定です。)

写真:「翁(白式)」 シテ方金春流能楽師 金春穂高 (Photo by Miro Ito)