Essays

能と舞踏における「花」と「華」− 3

by MIRO ITO (伊藤みろ)

 

見えないものを見つめる

ドイツ、アメリカ、日本と、三つの国で身体を撮ってきた私に、一貫した〝まなざし〟があるとするならば、被写体のもつ真性が見えてくる心的次元への視線といえるかもしれない。
真性とは、霊性ともいいうる「見えない本物」(3)であり、まさに私が写真を通して追い求め、その一端を写真集を通じて、ご覧いただいている「隠し身のしるし」のことだ。

その出合いの瞬間には、被写体と撮影者とを隔てる一切のものがなくなり、最高の均衡のような状態が静かに開かれる。「見る」「見られる」「撮る」「撮られる」の境を越えて、一体となる場所があるとしたら、それが写真である。自他がともに浸透し合い、二者の区別が存在する前の状態に向かうのだ。

禅ではこれを「無」(4)という。

無とは、何もない状態ではなく、完全の調和でありながら、動力を内に秘めた状態なのかもしれない。禅で説かれる「身心脱落」(5)により、調和の中からかに立ち顕われる、宇宙の秘めたる力につながることが、無の境地へと向かう瞑想行為であり、写真術の醍醐味に違いない。

こうして写真は、限りなく禅に近づく。

 

3  五世野村万之丞著『マスクロードー幻の伎楽再現の旅』(NHK出版、2002年)
4  鈴木大拙著『日本的霊性』(岩波書店、1972年)
5  道元著『正法眼蔵』第七二「三昧王三昧」の巻 (1245年頃)
(※当エッセイは、2021年10月発刊予定の写真集『隠し身のしるし』に収録予定です。)

写真:「Inter/action」 Sal Vanilla (Photo by Miro Ito)