Essays

身体という華 − 2

by MIRO ITO (伊藤みろ)

人体が語りかけてくれるのは「宇宙とは、今も昔も未来も存在するものすべてである」 (5)ということだろう。

身体は 〝生成と消滅の循環〟を内在させる「宇宙」であり、いのちのの粒子が見えない波動としてり、魂のかな〝ゆらめき〟の気配が立ち上る。水銀はあたかもそれを止める〝特効薬〟のように、魂を永遠へと覚醒させるのだろうか。

木乃伊は、生きながら永遠を目指し、死して鉱物に戻った人体だ。有限の身体に、無限とつながる再生への願いが託され、いのちの波動こそ止まったように見えながら、魂は永遠の宇宙的根源へと開かれる。そのような神秘が、そこに横たわっている。

室伏自身、かつて木乃伊を踊った。1975 年に「舞踏派背火」を立ち上げ、その後の活動は、師匠土方から「木乃伊の20 年」(6)と評されたほど、木乃伊そのものと、さらに人体が木乃伊となり鉱物へと変成する過程の表現にこだわった。

木乃伊の身体を「死から次の、別の生への移行、脆い端」(7)として、また「突っ立っている死体」(8)として、その硬直し、崩れ傾き、倒壊し、分解して行く運動性を、隠喩的に踊りに託していった。

いのち〟と〝かたち〟の綱引き
私にとって舞踏とは、さまざまな〝いのち〟のあり様そのものだ。鮮烈なまでに毅然としてある、個々の〝いのち〟の数だけ、舞いの〝かたち〟がある。

生が絞り出す痙攣のような動きの中で、その未知の狂乱があまりにもき出しであるがゆえに、観る者は戸惑いながら、ある種の〝綱引き〟を舞い手の身体と行う。見えるものと見えないもの、可知のものと不可知のもの、そして、感性と思考と意思の間で…あるいは好奇心、驚き、不可解といったものの間で…。

観客が舞踏家の身体を通して追体験するのは、情念だったり、衝動だったり、陶酔だったり、戦慄だったり…最も身近な身体を通して、未知なる無意識の彼方へと向かいながら、魂と身体が〝近さ〟と〝遠さ〟を競い合うかのように_。

舞踏とはいわば「命と形のおっかけっこ」(9)なのだ。

 

5  カール・セーガン(Carl Sagan)の言葉"The Cosmos is all that is or ever was or ever will be."
6,7,8  室伏鴻のコメントは「美術手帖」(美術出版社)、2005 年 12 月号より
9 吉岡由美子の談話より
(※当エッセイは、2021年10月発刊予定の写真集『隠し身のしるし』に収録予定です。)

写真: 「Quick Silver」 室伏鴻 (Photo by Miro Ito)