Essays

身体という華 − 3

by MIRO ITO (伊藤みろ)

室伏鴻は自らの舞いをこう語った(10)。
「なにか自分とは別の、潜在する力に触れてゆくこと」
「幼児が未だ重力と無縁であった全能感から追放されること」
「ダンスの欲望としてひとつあるのは、消失、存在を消去してしまうこと。あるいはバラバラに解体すること。そしてなにも為さないこと」

日常の身体性を消失させ、「見る」「見られる」境をも消去してしまう前衛舞踏家たちの舞いは、魂の深淵に潜む、生滅の無常に触れていく。西洋の人々を惹きつけて止まない「Butoh」ならではの、ある種のカタルシス(魂の浄化)は、まさにそこにあるのだ。

舞踏家たちは、舞いを踏む自分さえも消し去っていき、「無」へと向かう。

誰もが目を背ける、個々の存在の耐え難い重さによって産み落とされた彼らの舞いを通して、「身体の向こう」(11)の秘密が開かれ、いつしか舞い手も観客も自己を消し去って、無意識の彼方へ、無の境地へと、お互いの魂を解き放っていく。

いのちの鮮烈な証

〝花は花である〟という普遍性を求める「能の花」と、個々のいのちの〝それぞれの華〟である「舞踏の華」。花といえども、美しさは千差万別で、咲いたら散る運命だ。無情にも花のいのちは短い。そうした〝短い花のいのち〟と向き合う行為が生け花だ。

実は写真作品と生け花とは似たもの同士といえる。花を鉢に挿すことを「生ける」というように、生け花の芸術は〝死〟を貼付けながらも、いっそう鮮烈に花の〝いのち〟を提示する。

この世に生を受けて以来、一瞬一瞬がのっぴきならぬ、いのちの時間だ。写真とは、いのちの時間を瞬間冷凍でもするように、どこか別の時空へ封印する術といえる。
鮮度を保ったまま、祭壇に捧げる献花のように…。

 

10 室伏鴻のコメントは「美術手帖」(美術出版社)、2005 年 12 月号より
11 伊藤美露個展タイトル「光幻裸体 身体の向こう域へ」(1995年東京写真月間参加展、キヤノンサロン)より
(※当エッセイは、2021年10月発刊予定の写真集『隠し身のしるし』に収録予定です。)

写真:「Inter/action」 Sal Vanilla (Photo by Miro Ito)